大長編の凄味
 1980年1月号のコロコロコミックにて「のび太の恐竜」の連載が始まった時の衝撃は今でも忘れることが出来ません。
 すでにてんとう虫コミックス10巻で元になった短編は読んでたんだけど、随所に伏線になりそうなコマが描き足されており、あの「のび太の恐竜」がいったいどうなるんだ、と本気でワクワクしたんです。

 しかしアタシが本当に興奮したのは次作の「のび太の宇宙開拓史」で、今でも大長編の最高傑作はこれだったと思ってるくらいなんですよ。
 とにかく<宇宙>と<西部劇>を何の破綻もなくひとつのパッケージに詰め込んでるのがすごすぎる。まさに天才・藤子・F・不二雄の面目躍如と言える作品ではないでしょうか。
 でもね、最初は、つまりコロコロコミックで連載が始まった時はよくわかってなかった。
 西部劇の世界観ってのは示唆されていたから、ああ、そういや西部劇って<開拓>時代とか言われるし、そういうことかと。ま、実際劇中にも土地を開拓するシーンとか出てくるし。
 しょうがないよ。その程度の理解でも。まだ子供だったし。

 西部劇がユニークなのは必ずしもドンパチが必要ではないというところです。
 どうしても西部劇というと派手なガンファイトのイメージがありますが、何しろアメリカ人にとって西部劇は日本の時代劇みたいなものなので、牧歌的で郷愁をさそうシーンが頻繁に出てきます。
 おそらくは観客を郷愁へいざなうためなのでしょうが、主人公が<流れ者>である、という設定の作品がいっぱいあってね。
 孤独な流れ者がフラリと訪れた町には悪漢が蔓延っている。一宿一飯の恩義じゃないけど、町の人を助けるため流れ者が悪漢を退治して去っていく、なんてのは西部劇の定番パターンなのですが、こうしてみると沓掛時次郎とか吉良の仁吉といった時代劇の題材と一緒ですよね。

 「のび太の宇宙開拓史」はより西部劇感を出すために、流れ者という設定を踏襲しています。
 しかし考えてもみてください。のび太は流れ者でも孤独でもない。家族や友達もいれば帰る家もある。
 しかし実に周到な設定を用意することによって、のび太を<孤独な流れ者>たらしめているのです。
 作品の舞台となるのはコーヤコーヤ星という、とてつもなく離れた距離にある星という設定ですが、のび太の部屋の畳裏とロップル(ゲストキャラ)の宇宙船が異空間によって繋がったのは完全に偶然です。つまり能動的な要素が何ひとつない。
 繋がったことが偶然なのであれば、異空間が切れることを防ぐ方法もない。しかも随所に「異空間がいつ切れるやもわからない」という描写が挟み込まれているので、いやが上にも「のび太たちとロップルをはじめとするコーヤコーヤ星の人たちとの交流は、いつ終わるかわからない期間限定の交流」というのを意識せざるを得ないわけです。
 訪ねる側、つまりのび太の意識はともかく、コーヤコーヤ星の人たちにとっては「のび太たちは流れ者以外の何者でもない」ということになるわけで。

 まだフォーマットが確立され切ってなかったというのもあるんだろうけど「宇宙開拓史」は地球上の描写が多いのも特徴ですが、大長編には珍しくのび太は地球では嫌な目にあいまくる。辛い地球よりも心からのび太たちを歓迎してくれるコーヤコーヤ星は間違いなく癒しの場所であり、だからこそ命を懸けてコーヤコーヤ星の人たちを助けようとするんです。
 そして忘れられないのはクライマックスでのギラーミンとのび太のタイマン対決です。
 たしかに得意のガンファイトでのび太が活躍するのがこの作品のキモなのですが、この対決はすごい。
 こうした「実はのび太は気が弱いわけでもなんでもない、肝っ玉の座ったヒーロー気質」というのは早くも2作目の「宇宙開拓史」から芽吹いていたのです。
 以降、作品を重ねる毎にのび太は成長していき、「のび太=ヒーロー」という図式はあきらかになっていきます。
 そして大長編としては最末期の「のび太と銀河超特急」において、ついに「のび太=ヒーロー」像が完成されることになるわけです。

 のび太が成長しだしたというか、藤子Fが「のび太を成長させる」という意思を示しだしたのは、小学館の学年誌での掲載が少なくなりだした頃です。
 中編の「ガラパ星から来た男」を除いて最後に描かれた短編は1991年に掲載された「こわ〜い!百鬼せんこうと説明絵巻」だそうですが、これより後に描かれた大長編「のび太と雲の王国」以降は「大長編こそが本編」という扱いになりました。
 「雲の王国」以前の大長編は「本編と少しキャラクター設定が違う」のが基本になっており、のび太は「宇宙開拓史」、ジャイアンは「大魔境」、スネ夫は「宇宙小戦争」のキャラクターをベースにしていた。つかキャラクターエピソードを省いて物語に注力したっていう。
 そりゃそうだよ。んなもん毎回「何でジャイアンが男気を発揮するのか」のエピソードなんて入れてられないもん。

 しかし「雲の王国」以降はそうしたキャラクター設定は「大長編だけのもの」から「ドラえもんという作品すべてに通用するもの」に変化しました。
 だから、物語の中ではっきりと「昔、自分たちはこんな冒険をした」とキャラクター自身が語り出し、物語の連続性が有効になり始めたのです。つまりこの時点で「ドラえもん」は完全なギャグ漫画ではなくなった。
 ギャグ漫画ってのは前回のエピソードを次回に引き摺ってはいけないのです。家が火事で丸焼けになろうが、次の回では当たり前のようにその家が登場する。それがギャグ漫画です。(「クレヨンしんちゃん」で火事のエピソードに連続性があったのは、それ自体を「ギャグ漫画のお約束のパロディ」にしていたっていうね)

 数々の大冒険を繰り返して、それが積み重ねになると、もう今度はキャラクターが成長しない方がおかしい。それでも「毎度皆様お馴染み」を崩さないように、変更は最小限には食い止めているのですが、それでも、もはや「のび太のヒーローとしての資質」は隠しようもないほどあからさまになっていったのです。
 結果、藤子Fが生前最後に結末まで描いた「のび太と銀河超特急」に至っては、のび太は完璧なヒーローであり、あまりにもヒーロー然としているので、スネ夫にメタ台詞を言わせているくらいです。
 これはおそらく読者を置いてけぼりにしないためのものでしかなく、ついに「腕力こそないが、射撃の腕に長け、時にはリーダーシップまで発揮して、常に勇敢に悪と対峙する」のび太像が完成した、という。
 とくにクライマックスののび太のカッコよさは尋常ではない。そりゃあ、ああいう姿を見せられたら、しずちゃんも惚れますわ。

 さて、2004年のことになりますが、何のことか「ドラえもん」は通常放送を中断して、1996年に公開された映画「のび太と銀河超特急」を4週にわたって放送する、というね、暴挙というか、よくわからないことをやっていました。
 しかし今考えると結構意味があるというか、放送した側の理屈は知らないんだけど、コジツケようと思えばいろいろコジツケは出来るな、と。
 まずは何で「銀河超特急」が選ばれたかです。
 たとえばこれが第1作の「のび太の恐竜」とか、この時点で最新作であった「のび太のワンニャン時空伝」なら、わりと理解しやすい。しかし8年前に作られた、キリ番でもなんでもない17作目にあたる「銀河超特急」なんかを何で選んだのか、は一見理解し難い。
 さらに言えば、スペシャルではなく何でブツ切りで4週に分けて放送したのかも謎なんだけど、他ならぬ「銀河超特急」ならば、まったくわからないこともないんですよ。

 「銀河超特急」について藤子Fは、前作の「のび太の創世日記」が小難しくなってしまった反省から、子供でも楽しめるような明るい作品にした、と語っていたようですが、アタシは違う見立てをしているのです。
 「創世日記」が「藤子Fの教養の集大成」であるなら、「銀河超特急」は「娯楽の集大成」に感じてしまうんです。
 かたや教養、かたや娯楽、方向性は違いますが、共通する部分があります。それは「どう考えても200頁弱(映画なら90分ちょい)で語り切れる題材ではない」というところです。
 とにかく両作品とも、これでもか、と言わんばかりに詰め込んでいる。はっきり言えば詰め込みすぎです。
 だから完成度は高くない。どのエピソードもあまりにも軽くカタをつけすぎていて、F作品特有の「発想を極限まで膨らませた」みたいなのがまるでないんです。

 これは「銀河超特急」でとくに言えることですが、銀河超特急での旅やテーマパークの中のアトラクションはいくらでも膨らませられたと思うんです。つかいつもの藤子Fならそうしている。
 しかし、たぶんそれも承知の上なんだろうけど、ひとつの作品に「宇宙旅行」「西部劇」「恐竜の住む世界」「忍者の世界」「ファンタジー」といった、これまでそれ一本で大長編の題材となったものを全部ブチ込んでいるわけで。
 「創世日記」は藤子Fが強い興味を持ったカルチャーの部分を全面に出したものだとするなら、「銀河超特急」は藤子Fがかつて心から楽しんだサブカルチャー、つまり娯楽映画や娯楽小説のエッセンスを詰め込んだものになっているのですが、あまりにも詰め込んだため薄味にするしかなかったっつーか。
 何でこんなことをしたのか、と想像するなら、「死期を察していた」としか思えないんです。もう漫画を、つか何本も大長編「ドラえもん」を描くことは出来ないだろう。ならば「教養」と「娯楽」にざっくりと分けて、その中で全部描き切ろうとしたんじゃないかと。

 そう考えるなら「銀河超特急」を何故ブツ切りでテレビ放送したのかが想像できる。
 本来なら「銀河超特急」は90分で描く物語ではないのです。ちゃんと膨らませれば映画なら最低3本分、30分のテレビ放送枠なら1クール(13回分)に引き伸ばしても十分に耐えられるだけの題材を揃えています。
 完全に想像でしかないけど、もしかしたら翌2005年に実行された「声優総入れ替え」と別の選択肢(テコ入れ)があったんじゃないか。その別の選択肢こそ「大長編を原作として、1話完結ではない連続モノのドラえもんを作る」ってのじゃなかったのか、と。
 「大長編を原作として連続モノの作る」となると、どう考えても一番相応しいのは「銀河超特急」です。本当は旧作映画を4つに分割して放送するのではなく、完全新作で作り直したかったんじゃないか。ま、結果的にはその案はボツないしNGになったんで、ああいう形にしたんじゃないかとね。

 それにしても大長編「銀河超特急」を読む限り、F先生はもっともっと大長編を描いていたかったんだろうし、描ける題材も用意してたんだろうなぁとしみじみ思う。とくに「忍者の世界」とか本当は単独でやりたかったんだろうなと。
 というか、完全にヒーローに成長したのび太の活躍をもっと見たかったなと痛切に思う。あれが本当の、F先生が思い描いていた「のび太像」なのだろうから。
 そーゆーのをちゃんと見てリメイクだの二次創作だのしてたら、トヨタのCMみたいなことにはならないと思うのですがね。


 (初稿 2014年3月21日更新「宇宙開拓史の凄味」、2018年5月1日更新「のび太は成長しないのか」、2018年5月24日更新「銀河超特急の夜」他・改稿 2018年11月26日)