阪急への熱き思い
 ♪ 世界ッはッひッとッつゥ 手をつッなッぎッまッしょォ
   歌と踊りでェ 七つの海をォ 一緒ォに周ァりましょ〜

 これはアタシが「聴くだけで号泣してしまう」ただひとつの曲のサビの箇所です。
 タイトルは「世界はひとつ」。ってもこのタイトルとサビの歌詞だけで、いったいどれくらいの人がわかるんだろうか。
 しかしアタシの前後10歳くらい(つまり1958〜1978年生まれ)の、しかも阪神間にお住まいだった人なら、きっとこの感覚を共有出来ると信じているんですがね。

 子供の頃の楽しみ、それも非日常的な楽しみと言えば、ひとつが阪急百貨店梅田店に行くこと、もうひとつが宝塚ファミリーランドに行くことでした。
 もちろん神戸生まれのアタシにとって、デパートと言えば何と言っても神戸そごうでしたが、やっぱり阪急百貨店には独特のきらびやかな感じがあってね。下駄履き感覚で行っていた神戸そごうとは根本的に違う<お上りさん>気分があったんです。
 子供だから、具体的に何が売ってる、何が高い安いなんて関係ないんですよ。それよりもムードですよね。あの何とも言えない、格式のある阪急百貨店はずっと憧れの存在だった、と言っても過言ではありません。

 で、宝塚ファミリーランドです。
 こっちは阪急百貨店よりさらに連れて行ってもらえる頻度は低い。梅田なら電車で30分で行けるし、デパートの場合、そこまで見て回るのに時間がかかるわけじゃないんで、夕方からでも余裕で行ける。
 けど宝塚ファミリーランドはそうはいかない。何しろこっちは遊園地です。しかも移動時間も倍近くかかる。となると<まる一日>を要するということになるので、そうそう連れて行ってもらえないのは当然です。
 だからこそ、とんでもなく希少な体験という感覚が味わえた。
 もうとっくになくなっているので、宝塚ファミリーランドの詳しい施設とかは憶えてないんだけど、たしか小規模な動物園も併設されていたはずで、まずは動物を見て回って、その後で遊園地エリアに行く。
 そして何故か、最後は「世界はひとつ」で締める、というのが定番パターンだったんですね。

 この「世界はひとつ」というアトラクション、もうぶっちゃけて言えば「イッツ・ア・スモール・ワールド」の丸パクリです。
 もちろんこの頃はまだ東京ディズニーランドとかない頃なので、そんなものは知らない。しかし今考えるなら「人形に歌い踊らせて、世界巡りをする」なんてコンセプトまでまったく同じです。
 音楽も似せてあったように記憶していたんですが、そんな時「世界はひとつ」のレコードバージョンを聴くことが出来た。
 いやね、別に「懐かしくて」聴こうとしたんじゃないんですよ。ただ、いったいどれくらい「イッツ・ア・スモール・ワールド」に似ていたのかが気になってね。
 実際聴くとたしかに似ていた。けどもう、そんなことはどうでもいいくらい、あの頃の感覚と今置かれた状況がリンクして泣けて泣けてしょうがなかった。
 何より、今のアタシを形成しているのは「世界はひとつ」なのではないか?とすら思ったくらいでして。

 高校に入ったくらいから、アタシは「昔の邦画」にハマりだし始めます。
 とくにお気に入りだったのが1960年代の東宝映画で、東宝、と聞くだけで心が躍った。あのモダンな、それでいて安っぽくてテキトーな感じが多感なオトシゴロのアタシを揺さぶりまくったのです。
 もちろん今も1960年代の東宝映画は大好きですが、同じくらいの比重になったのが戦前モダニズムでしてね。モダンなだけが取り柄の音楽喜劇映画を作っていたP.C.L.が東宝の傘下に入り、よりモダニズム感が増強された。
 戦前期のP.C.L.→東宝映画のモダンさは戦前モダニズムを今に伝える貴重な資料です。いやね、もちろん当時の日劇や有楽座の舞台が観られたらベストだけど、さすがにそれは無理というもので、そのエッセンスが注入された当時のP.C.L.→東宝映画を観るだけで、アタシは戦前期に果てしないロマンを見出すことになったわけで。

 気がつけば、アタシは阪急東宝グループが作り上げたもので育っていた。
 阪急百貨店も、宝塚ファミリーランドも当然そうだし、それらに行くために阪急電車を使っていたのは言うまでもない。うちは阪急沿線だったので高校への通学でもずっと使ってたしね。
 阪急、そして東宝を作り上げたのは、稀代の大実業家である小林一三です。
 大袈裟でもなんでもなく、この人なくして今のアタシはない。だからいつしか彼に傾倒した。何しろ小林一三の感覚に触れたくて大阪府池田市にある小林一三記念館にまで行ったくらいだから。
 ここはすごいですよ。何しろ小林一三の邸宅を改装しており、1937年建立という戦前モダニズム真っ盛りの時期の洋風建築なので、まさに戦前期の東宝映画の世界に迷い込んだような感覚が味わえるんです。
 <記念館>なんだから当たり前ですが、当然小林一三の足跡というか、彼が成し遂げた事業に関する資料もいっぱい展示されています。

 小林一三は阪急電鉄を手始めに、百貨店、遊園地、歌劇、映画など、数々の成功を手にしていますが、もうひとつ、小林一三と言って忘れてはならないのは「野球」です。
 彼の野球にたいする情熱は凄まじく、大正期の時点ですでにプロ野球球団構想を持っていました。
 日本で最初のプロ野球球団は日本運動協会(のちの芝浦運動協会)でしたが、運営が立ち行かなくなったこのチームを小林一三は引き受け、宝塚運動協会と改名して存続させているくらいです。
 結局、宝塚運動協会は頓挫しますが、それでも小林一三はプロ野球リーグ結成に執念を見せ、阪神、京阪、南海、近鉄などを誘って「関西電鉄リーグ」構想なる青写真まで描いていたのです。
 ところが、甲子園球場を持っていた阪神は小林一三の誘いには乗らず、讀賣新聞のプロ野球リーグ構想に乗ってしまうのです。

 小林一三は本当に幾多の事業を普遍的な形で成功させた稀代の大実業家だった。しかしそんな小林一三が手がけた中でどうしても上手くいかなかったのがプロ野球事業で、そこには常に阪神という影があった。いわば阪神に煮え湯を飲まされ続けたのです。
 関西にお住まいの方なら、いや他地方の方でも地図を見れば一目瞭然ですが、阪神間において阪急と阪神は並走しています。阪急は山側、阪神が海側を走る、もう文句なしのライバル関係なんだけど、会社としては阪神の方がかなり小さい。(言うまでもないけど、今は同一企業グループですが)
 しかし阪急は三宮延伸を妨害されたのを手始めに、阪神と阪急の戦いは常に阪神が優勢だった。
 プロ野球も同じで、阪急主導のプロ野球リーグ構想を潰され、2リーグ分裂時には一度は「行動を共にする」と約束しながら、またしても阪神は讀賣に寝返った。
 阪神は対巨人戦という黄金カードを維持し、その後は「阪神ファンでなければ関西人ではない」という風潮まで生み出した。一方阪急はチーム力では阪神を圧倒しながらまるで人気を得られず、平成になる直前に球団経営から退く結果となったのです。

 しかし生まれながらにして小林一三イズムが染み込んでいるアタシは、阪急を応援していました。
 その後、阪神も応援するようになりますが、一番最初に興味を持ったのは紛れもなく阪急ブレーブスだったのです。
 初めてプロ野球観戦に行ったのも阪急対南海戦だったし、阪急ブレーブス子供の会にも入会していた。だから、小学生時代に限るならアタシは甲子園よりも西宮球場の方が数多く行っていたってことになるんですよ。
 西宮北口駅から西宮球場に向かう道の雰囲気が良くてね。一応<ハイソ>か売りの阪急沿線だから甲子園近辺ほど下世話ではないけど、それでもプロ野球という大衆的な興行が行われるムードがあって。あの空気は一生忘れません。
 そして西宮球場がまた良かった。とくに印象的なのがオレンジのスコアボードですね。何だか妙にモダンでカッコ良かったんです。

 当時の阪急にはきら星の如きスターが揃っていました。
 世界の盗塁王福本豊、イケメンサブマリン山田久志、豪快なスイングと巧打を兼ね備えた加藤秀司、打撃フォームがカッコいい長池徳二、快速球投手山口高志・・・。これにマルカーノ、ウイリアムスの両外国人、代打の本塁打記録を持つ高井、いぶし銀大熊、老練足立、超個性派の森本など脇役も揃っており、本当にいいチームでした。
 しかしいかんせん、人気はまったくなかった。これだけのメンツを揃えておきながら人気がないというのも異常で、当時は関西と言えど阪神人気も寡占状態ではなかったんです。なのに人気がなかった。
 それでも当時、土曜日と日曜日の夕方に阪急主催のゲームをテレビで毎週やってたんですよ。アタシはこれを見るうちにどんどん引き込まれていった。<強くてカッコ良い>阪急ブレーブスにね。

 アタシが阪急に心を砕いていたのは1978年までです。結果的にあの日本シリーズの抗議から熱が冷めちゃいました。いや抗議云々じゃなくてアタシが見始めてから阪急は、たった2年とはいえずっと日本一だったんですよ。それがこの年日本シリーズで負けてしまった。
 ちょうどその年の暮れ、阪神に大変革があり、そう、あの江川問題です。そして翌年の江川初登板の試合で、阪神打線が江川を打ち崩したことが、完全に阪神一本に絞るきっかけになったのです。
 これね、今でも思うことがあるんですよ。もし、もしもね、阪急がヤクルトに勝って日本一になって、江川問題に阪神が一切絡んでなかったらどうなってただろうなって。

 それ以降、もちろんパ・リーグでは阪急を応援していたんですが、もう小学生時分のような情熱はなくなっていました。
 アンダーシャツが赤になり、近鉄を真似たような帽子になって、オレンジのスコアボードもごく普通の黒の電光掲示板になった。何だか阪急というチームの持っていたカッコ良さみたいなのが消えた気がしたんです。
 1980年代前半、山田や福本は現役だったとはいえ衰えを隠せませんでしたし、足立や長池は引退、加藤秀は広島にトレードされ、山口はまさに燃え尽きました。
 アタシが思い入れを持った選手がどんどん減っていき、世代交代も完全に成功したとは言えず、チームもなかなか優勝出来なくなっていきました。
 それでもやっぱり、阪急は他のパの球団とは別格でした。阪急電車に乗って阪急戦のポスターを見るにつけ熱いものがこみ上げてこなかったといえば嘘になります。
 しかしそれも1989年で完全に終わった。以降、オリックスになってからは阪神を除く11球団と何ら変わらない存在になってしまったわけでして。

 何より大きかったのは、やはり阪急が球団経営から手を退いたからです。
 この場合、阪急というよりは小林一三なのですが、小林一三が手がけた事業は、何だかわからない、特殊な吸引力があった。少なくともアタシには。だから、阪急百貨店にも宝塚ファミリーランドにも、東宝映画にも吸い寄せられていったのです。
 そんな中に阪急ブレーブスというものもあった。とっくに小林一三本人は亡くなっていたとはいえ、まだ小林一三イズムが残存していたからこそ、アタシはブレーブスに想いを寄せたのだと思う。
 もちろん子供がそんなことを考えないですよ。しかし頭で考えたのではなく感覚で、という方がはるかに強いんですよ。

 アタシは阪急ブレーブスの末裔にあたるオリックスバファローズには何の思い入れもない。小林一三と無関係なものに関心を寄せる義理も意味もないし。
 阪急ブレーブスにたいしても、宝塚ファミリーランドにたいしても、もうなくなってしまったんだ、という感傷が強くて、懐かしいよりも悲しい気分の方が強いんです。
 しかし「阪急ブレーブス応援歌」という歌だけは違う。
 「世界はひとつ」が号泣してしまうものならば「阪急ブレーブス応援歌」は聴くだけで熱い気持ちがたぎる歌だと言ってもいい。
 小林一三の逝去から4年経った頃に発表された「阪急ブレーブス応援歌」にはまだ小林一三イズムが濃厚に残っています。だからアタシはこの曲こそ小林一三の鎮魂歌だとさえ思うわけで。

 ♪ 晴ァれたる青ォ空ァ わァれらァのォブレーブスッ
   萌ォえたァつみどォりかァ わァれらァのォブレーブス!


 (初稿 2011年12月30日更新「阪急ブレーブスへの熱き思い」、2015年3月19日更新「命から二番目に大事な歌」、2015年7月25日更新「暗くて眩しい世界」、2015年7月27日更新「子供の会、というシステム」、2017年2月1〜3日更新「オリックスを『何とか』する方法」、2017年2月5日更新「東宝映画の正体と小林一三」他・改稿 2018年10月29日)