決別に花束を<総集編> 前編
 2017年8月27日14時39分、アタシは東京都中央区日本橋浜町2丁目の地下にある浜町駅に降り立ちました。
 地上に上がり、明治座を右に見ながら西に歩く。ものの数分で甘酒横丁の交差点に到着します。周りを見渡せば「人形町駅」という地下鉄の駅の看板が見える。
 かつて、2002年から2003年にかけて、アタシはこの一帯に居住していました。アタシの住んでたマンションは、正確には日本橋蛎殻町になるんだけど、それはまあいい。
 とにかくアタシは14年の時を経て、この地に帰ってきた。ここで2泊するためにホテルの予約も済ませてある。
 それは<未練>の元を探すための旅でした。


 アタシがこの街に越してきたのは、ある意味偶然、ある意味必然のことだったと思います。
 2002年の夏の終わり、どうしてもこの付近に住みたい、という強固な意志を通して蛎殻町のマンションを借りたのは事実ですが、その前にいくつもの偶然があったからこそ、この街に出逢ったと言えるわけでして。
 さらに時代を遡ります。
 1999年、というと皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。
 三題噺ではないけど、この年のキーワードを3つ挙げるなら「ノストラダムス」「モーニング娘。」「iモード」になるんじゃないかと。少なくともアタシはそう思っている。

 恐怖の大王が空からやってくる、なんていうノストラダムスの予言があったためか、1999年は奇妙な世紀末感がありました。ま、二十世紀の末なのは紛れもない事実なので、世紀末ってのに何の間違いもない。まァ、終末感と言った方がいいか。
 もちろんね、大多数の人はこんな予言を信じちゃいなかったと思うんですよ。アタシも鼻で笑ってたし。
 しかし、たぶん日本という国にまだ底力があったんでしょう。とにかく「終末である」というのをテコにして、無理矢理にでも活気づこう、みたいな空気が充満していたのは事実です。
 この終末的空気をもっとも上手く吸い上げたのが、モーニング娘。が歌った「LOVEマシーン」で、終末ならではの<ヤケッパチ>な、それでいて翌々年に控えた新世紀への目配せまで含まれたこの楽曲は、結果的にでしょうが「二十世紀のグランドフィナーレ」となり、まさにこの時代を代表する歌になったわけで。

 「LOVEマシーン」が<過去へのケリ>だとするなら、iモードは<未来の足音>と言えるものでした。
 (面倒なので、各キャリアの同様のサービスを含めて「iモード」と呼称します)
 1999年頃と言えば、インターネットの普及度は今とは比べものにならないレベルで、やってる人とかぜんぜんいないって程度ではなかったものの、数で比較するならやってない人の方が圧倒的に多かったように思う。もちろん地域や職種によってもだいぶ違うんだけど。
 インターネットを一気に身近にしたのは、間違いなくiモードでした。完全に開かれたとは言えない、いわばインターネットのサブセットってなレベルでしたが、それでも、誰でも簡単にインターネットに接続出来るサービスが開始されたことは、二十一世紀にはインターネットなんて当たり前のものになる、ということを予感させるに十分だったのです。

 とくに画期的だったのはiモードのメールサービスでした。
 それまで、パソコンで行うメールのやり取りは完全に「手紙の代替」でしかなく、間違っても即答は期待出来なかった。何しろ相手がパソコンの前に座るまでは確認さえままならなかったんだから。
 iモードメールはそれを大幅に変えた。
 このサービスが画期的だったのは「プッシュ通知」なる機能を備えていたことです。
 メールを送信すれば、iモード対応ケータイならばすぐに受信し通知してくれる。相手がキャリア違いだろうがパソコンだろうが壁はなく、また初期は250文字までしか送れないという制限があったこともあって、まるで「会話の如く短文でやり取りする」という文化が生まれたのです。
 つまり今のLINEと何ら変わらないことが可能になったのが1999年と言えるわけで、iモード対応ケータイが出揃った2000年頃には、そうしたコミュニケーションが普遍のものになった、という。

 この「コミュニケーション革命」とさえ言える一大変革は確実にアタシの生活をも変えようとしていました。
 2001年になってアタシは神戸にある某広告代理店に中途採用になったのですが、この時点ですでに、コミュニケーション手段はまるで様変わりしていたのです。
 アタシはグラフィックデザイナーとして採用されたので完全な内勤だったんだけど、営業の人とのやり取りは電話ではなくメールになっていた。こちらはパソコンで受信するんだけど、営業は出先なので当然ケータイから。つまりiモードメールを使っていたという。
 下世話なことで言えば、この会社にいる時に何度かコンパに参加したことがあるけど、ゲットすべきは相手女性の電話番号ではなくiモードメールのアドレスだったんです。iモードメールアドレスさえゲット出来れば、もう「勝負はもらった!」と。何の話やねん。

 とにもかくにも、二十一世紀になって時代は変わり始めていました。その代表がiモードなんだけど、いつしかアタシは「時代の流れの最先端に身を置きたい」と願うようになっていました。
 この頃のアタシは、一応はグラフィックデザイナーという職業についていたのですが、この方面の才能はないと早々に見切りをつけていました。ま、小器用さだけでやってたようなもんです。
 かつて、音楽で身を立てたい、とか、文筆で食っていく、といった<夢>も泡と消え、かと言ってグラフィックデザイナーとして大成出来るとはとても思えず、これからいったいどうやって生きていけばいいのか、何の夢も目標もなく、ただ漫然と生きていた、とさえ言っていい。
 ちょうどそんな頃でした。どうもアタシが勤めていた会社が、東京に支社を出す、という噂が流れ始めたのです。

 最初はね、東京転勤を希望していた、コンビを組むことが多かった営業の人を応援するつもりで、東京の市場調査なるものを手伝っていたんです。
 しかし、どんどん考えが変わっていくのが自分でもわかった。「時代の流れの最先端に身を置きたいのであれば、それは自分も東京に行くべきではないか」というふうに。
 気がつけば東京転勤の希望を会社に出していました。
 幸いにも他に東京転勤を希望するデザイナーがおらず、アタシは2001年10月に東京支社準備のために東京へ向かうことになったのです。
 最初の勤務地は荻窪でした。そして最初の住居も荻窪。早い話がオフィスと住居を兼ねて、何部屋かある広めのマンションを会社が借りたのです。つまりは共同生活。ま、カッコ良く言えば上京したてのバンドみたい、と言えんこともない。

 しかしこの共同生活は長く続きませんでした。
 理由は書くのも馬鹿馬鹿しい金縛り騒動があったからで、アタシ以外の全社員が毎晩金縛りでうなされる、という異常事態になったっつーね、嘘みたいな本当の話です。
 ま、現地で採用した社員も増え、東京支社も採算の見込みが立った、またいつまでも大の大人が共同生活するのも、というのもあったけど、とにかく2001年の夏になってオフィスを新宿に移転させて、関西からの転勤組は全員各々マンションを借りる、ということになりました。
 他の社員の人は、新宿まで電車で10分程度の場所に居を構えた。通勤を考えれば当たり前です。
 しかしアタシはそれがどうしても嫌だった。
 リアルのアタシのことをよく知っておられる方ならお分かりでしょうが、アタシは本来共同生活なんて死んでも嫌な人間なのです。東京に転勤する条件だったからしかたなく受け入れただけで、せっかくひとり暮らし出来るのであれば、なるべく新宿とは関係のない土地に住みたかったんです。

 荻窪時代、共同生活の苦手なアタシは、休みのたびにアテもなく東京の街中を<ひとり>で歩きまわっていました。
 そのうち、東京には実に良い感じの、あきらかに戦前に建てられたとおぼしきビルが多いことに気づきます。
 戦前、かぁ。たしかに面白そうだけど・・・。これが「戦前モダニズム」という、アタシの後半生を支配する趣味の原点になったのです。
 いつしかアタシは、積極的に戦前モダニズムの香りのする土地を選り好んで行くようになっていた。当時ハマりかけていたPDAなるモバイル機器を駆使して、戦前モダニズムの色合いの濃そうな街を見つけ出しては週末に繰り出して行った。
 そんな中で、もっとも戦前モダニズムの香りが濃厚だと思われる街にたどり着いた。それが人形町界隈だったんです。
 ああ、もう、住むのなら、ここだ、と思った。通勤にはたしかに遠いけど、他の場所は考えられない、と。
 こうして2002年8月末、アタシは日本橋蛎殻町に住居を構えたのです。


 かつて、つまり2002年に借りていたマンションのすぐ側にホテルが出来ています。そしてそれから15年後の2017年8月27日15時ちょうど、アタシはそのホテルにチェックインをした。
 ひと息つく間もなく、ひたすら、ホテル近辺=人形町界隈を歩き回りました。そう、まるで15年前に帰って。
 箱崎にあるT-CATから、人形町交差点の辻にある玄冶店の石碑のあたりまで、何度も往復した。途中カフェで休憩したり、何度も通った本屋に寄って立ち読みしたりしながら、全身でこの街の空気を浴びようと思った。
 何故そんな、あまり意味のなさそうなことをやろうと思ったのか、それは当時つけていた日記に原因があったのです。
 続く。   
後編