ロッパとロッパの戦後版
 手元に膨大な数の、戦前・戦中期の日劇のパンフレットがあります。
 ま、実はこういうのって、ものすごく高いわけでもないんですよ。もちろん二束三文ではないけどね。だからと言って全部自腹で購入したのかというと、それはいくらなんでも無理。値段もだけどこれほどの数になるといくらコツコツ集めても膨大な時間がかかってしまう。
 かいつまんで言えば、借り物です。そう言ったら見も蓋もないけどさ。
 
 これらの資料を俯瞰で眺めてみると、古川緑波(以下、ロッパ)が如何に絶大な人気を誇っていたかが嫌でもわかります。
 彼の、正確には彼が率いた劇団であるロッパ一座の根拠地は有楽座でした。だから日劇にはそこまで出演しているわけではないんです。しかし「あのロッパが、日劇で公演をやるぞ!」みたいな期待感がパンフレットに漲っている。これはロッパの終生のライバルだった榎本健一(以下、エノケン)でもそこまでの扱いでないことを考えても、戦前・戦中期においては、舞台だけに限るならロッパがトップでエノケンは二番手だったと。
 ま、その分エノケンは映画がヒットしていたので、全部を換算すればエノケンとロッパ(と松竹の水の江瀧子)は<同格>と言っていいはずです。
 
 エノケンと言えば21世紀になった現代でさえレジェンドです。笑いの歴史を語るとなるとまずはエノケンから始めるのが常套だし、少なくとも名前レベルで良いのであれば「喜劇王エノケン」の名はいまだに轟いている。
 一方ロッパはと言うと、2010年代に入って<やや>名声を取り戻しつつあるとはいえ、正直その名が知れ渡っているとは到底言えないわけで。
 とは言えね、エノケンもロッパも彼らの芸に触れるのが難しいと言うことにかんしては一緒で、主要音源こそCD化されているとはいえ主演映画はまったくDVDになってないし、名画座でかかる確率も極めて低い。
 それでもエノケンの方が<やや>接しやすいのは、たった一本、かなり鑑賞しやすい作品があるからです。
 
 時代は1945年8月初旬。言うまでもなく終戦まであと数日にまで迫った頃です。ま、軍部の一部以外は「あと数日で終結」とかは知らずに生きていたんだけど。
 この頃エノケンは大河内傳次郎とのダブル主演映画の撮影中だった。監督はのちに「世界のクロサワ」になる黒澤明。タイトルは「虎の尾を踏む男達」です。
 同時期に撮影中だった黒澤明の師匠である山本嘉次郎の「アメリカようそろ」は終戦とともに撮影が中止された。ま、タイトルでもわかるようにプロバカンダ映画だったから。
 しかし「虎の尾を踏む男達」は完全な娯楽映画だったこともあって撮影が続行され、翌9月になって完成します。
 紆余曲折の末、公開は7年後になりましたが、この間に「東宝期待の新人監督」だった黒澤明は「世界のクロサワ」になりおおせていたんです。
 そのおかげで、監督が黒澤明だったがばかりに「虎の尾を踏む男達」はメディア化され続けている。DVDはもちろんBlu-rayだって発売されているし、もちろんTSUTAYAなんかに行けば普通に置いてあり、普通に借りれるわけで。
 つまりエノケンは黒澤明作品に出演したおかげで、その芸の一端が気軽に見れるのです。
 
 ロッパはその点でもツイてなかった。
 黒澤明はデビュー作「姿三四郎」を撮る前に「達磨寺のドイツ人」という企画を提出しています。
 主役は本当ならドイツ人なんだけど、映画の主役が出来るほど日本語が達者で演技が出来るドイツ人なんて戦前の日本にはいない。
 そこで黒澤明は一計を案じ、当時絶大な人気を誇っていたロッパをドイツ人役に起用する、という策を思いつきますが、製作本数激減のあおりを受けて企画がペンディングになってしまった。
 さらに戦後になって、今度は「七人の侍」にロッパを出す計画を立てていた。ところがロッパが「役が小さい」とゴネ始め、最終的には東宝側が断る形で実現しなかった。
 多少役が小さいからと言って「七人の侍」への出演依頼を渋るなんて莫迦だ!と思われるでしょう。ま、もちろん制作前に「七人の侍」が邦画史上ナンバーワンの名作になる予測があったわけではないけど、それでもロッパほどの人なら脚本を読んだ段階で「これは後世に残る作品だ」と見抜いてもおかしくないとアタシも思うんですよ。
 
 ロッパはもともと喜劇人を志したわけではないし、そうした素養に恵まれていたわけでもありません。
 生まれは男爵の子息であり、つまりは生まれながらのお坊っちゃん。蝶よ花よと可愛がられ、贅沢三昧の日々。それが幼少期のロッパでした。
 高校在学中から映画にハマり、そして映画評を書き始めるのですが、早くもその才が認められてイッパシの映画評論家になっている。
 また当時映画に欠かせない存在だった活動弁士との交流を深め、徳川夢声や山野一郎らとともに「ナヤマシ会」なるものを結成し、その舞台において見事なモノマネを披露している。
 いわば「早熟の天才」だったことは疑えないのですが、彼の芸は基本的に「口の達者さ」と「モノマネ」だけだった。歌にかんしては格別下手ではなかったけど、音楽的な修練を受けたことはまるでないし知識もなかった。そして当時のコメディアンの必須事項と言えるドタバタ演技も太ったロッパでは無理に決まっている。
 そんなロッパがエノケンと同格にまでなれたのは、ひとえに裏方方面の才能のおかげです。
 
 ロッパって人はとにかく客が喜ぶプログラム作りに長けており、音楽も徳山璉などの歌える人を起用してカバーし、苦手なドタバタは渡辺篤やサトウロクローなどにやらせて自分はじっとしながら笑いを取るというスタイルを確立した。また自ら脚本も書けたのも大きく、どういう演目をやれば面白い公演になるのかを感覚でわかっていたんです。
 何しろ元が評論家です。その鋭さは自らの公演にも向けられ、何がどう良いのか悪いのかを正確に分析出来た。だからこそ人気の上昇を続けることが出来たわけで。
 ただそれは、戦争が終わって、価値観が180度変わった時代になると一変する。ロッパにとって理解を絶する時代になったことで、何をやれば良いのかまるでわからなくなってしまったんです。
 全盛期から続く横暴な振る舞いのせいで人も離れていき、信頼していた人に騙されて財産も失い、持病が悪化して立ってるのもやっとの状況になる。
 病気を隠して無理矢理舞台に出ていたのが「ロッパは覇気もヤル気もない」と周りから見えるという悪循環で、次々に仕事も失うといった有様。
 そして戦争が終わって10年も経った頃には戦前・戦中期の喜劇王ロッパは見るも無惨な姿になっていたのです。
 
 先ほど「2010年代に入って再評価の兆しがある」というようなことを書きましたが、これは彼の芸が再評価され出したんじゃない。彼の書き残した文章が再評価され出したんです。
 とくに「ロッパ食談 完全版」は本当に面白い。アタシも食エッセイはいろいろ読んだけど、これほどまでに軽妙洒脱で食への熱い想いが伝わってくるものは皆無に近い。つかこれを読むだけでロッパが紛れもない才人だったことがわかる。
 正直に言えばロッパの「表方」の、つまりコメディアン、芸人としての才能は甚だ脆弱です。
 アタシも相当数のロッパ出演映画を観たけど、たしかに哀感はあるけど単調な演技だし、歌も下手ではない、というだけです。ま、今ならカラオケレベルと言って差し支えない。
 唯一の芸であるモノマネもね、これも悪くはないんですよ。例えば「踊り子日記」(1934年・P.C.L.)で見せたモノマネも上手いっちゃ上手い。でもモノマネという芸自体が様変わりした現代の目で見ると「上手いけど、それだけ」です。
 
 ロッパの<表方>は完全に色褪せたものでしかありませんが、エッセイなどの文章は先ほど書いた通り再評価の兆しがある=まったく古びてないし、もうひとつの「プログラム、座組の上手さ」はロッパのやり方が普遍になっていると言っていい。
 ロッパのやり方に普遍性が出たのは、ある意味ロッパのフォロワーと言える存在のおかげと言えます。とは言え本人はロッパなんかまるで意識してなかっただろうと思う。しかしその「在り方」などを含めて、アタシの世代が知ってる芸能人でロッパに近しい人がいるぞ、と。
 それが大橋巨泉ではないかと。
 もう最近の若い人が大橋巨泉を知ってるのかどうかもわからないし、仮に知っててもどういうイメージなのかとか知る由もない。
 でも1970年代から1980年代にかけては、大橋巨泉といえば「もっとも鮮やかな司会者」であったことは間違いありません。
 
 こう書くと自分でもちょっと「え?」と思ってしまうんだけど、実は大橋巨泉が大々的に活躍したのは、たった20年ほどなんです。
 もちろんそれ以前から「11PM」や「ゲバゲバ90分」(はギリギリだけど)、1990年代に入ってセミリタイア宣言をしてからも「ギミアぶれいく」は続けましたし、2000年代以降も政界に転じたりして露出はあったので、何となくもっと長期間司会業として活動してたイメージだったんですがね。
 巨泉の司会ぶりを実際に目の当たりにしたことがない人に説明するのは難しい。何故なら現今、類似した司会者がひとりもいないから。
 
 司会、というより巨泉の番組は、といった方が正しいのですが、巨泉は司会者でありながら王様というか殿様の位置にいるんです。つまり番組内での巨泉は絶対権力者であり、他の出演者は、まァいえば「シモベ」なのですよ。
 そんな感じだから司会者なのに他の出演者のことは基本呼び捨て、もしくはアダ名で呼ぶ。もちろん基本タメ口。
 こんな風だから、巨泉の司会ぶりを嫌う人は徹底的に嫌う。横柄だのエラソーだのと。実際巨泉を批判する投書や記事は少なくなかった。
 しかし「嫌いな司会者」として名前が挙がることをね、たぶん巨泉は嫌がってなかったんじゃないか。そんな司会のやり方ができるのは、んでそれで高視聴率が取れるのは自分だけだ、という自負があったというべきか。
 
 ロッパと巨泉は経歴もよく似ています。
 まずは文化人として業界に入り、口の達者さが認められて「出る側」に回った。
 口芸以外は脆弱でありながら、モダンで頭が良く、大衆の求める座組みを作ることが得意で、一出演者としてだけではなくプロデュース能力込みで買われていたことも似ている。
 もちろん似てないところもあります。
 ロッパがマズかったのは横暴なのが役柄にとどまらず、楽屋裏でも横暴だったことで、だんだん慕ってくる人間が減っていった。
 ところが巨泉にかんしては、番組外で横暴という話を聞いたことがない。かつての自分の番組の出演者(つまりシモベ)の番組にゲストで呼ばれることも珍しくなかった。もしロッパのような嫌われ方をしていたら、こんなことはあり得ません。
 
 アタシの年齢ではロッパの生の舞台を見られるわけがない。生まれる7年以上前にロッパは逝去してるからね。
 だからロッパの舞台の雰囲気などわかるわけないのですが、もし巨泉が「ロッパの戦後版」ならば、逆の言い方をすれば「巨泉の戦前版」がロッパともいえるわけで、数々の巨泉司会の番組を思い起こせば、何となくですがロッパの舞台が想像できてしまうわけで。
 
 
 (初稿 2014年1月30日更新「ロッパという文化人」、2017年4月9日更新「ロッパの戦後版」他・改稿 2019年5月27日)