千日前エレジー
 叶わぬ夢があってね、それは水島新司の「あぶさん」を実写映画化することです。
 といっても福岡に行って以降の完璧超人の話じゃないよ。あぶさんが南海ホークスに入団するまでの話をものすごくリアルにやりたいな、と。
 
 プロローグは決まってる。
 1970年代前半、早朝の道頓堀。道頓堀といっても千日前側ではなく御堂筋の西側の路地に一台二台、トラックが通り過ぎる。
 そのうちの一台が一升瓶を踏みつけガチャンと大きな音をたてた。
 にもかかわらず、傍で酔い潰れて寝ている男は微動だにしない。
 「なんやこの男は。ええ若いもんが情けないのぉ。こんだけのガタイしとるんやったら仕事とかなんぼでもあるやろに」
 「そら、たぶんここ(と頭を指差す)が弱いんでっしゃろな」
 「たしかにこんな地ベタで酔い潰れとるモンが賢いとは思わんわな」
 早出のサラリーマンが囁きあっている。
 すると男はパチリと目を開け、おもむろに立ち上がった。
 「な、なんや、喧嘩やったらまた今度や。これから仕事やさかい」
 おののくサラリーマンには目もくれず、男はなんともいえない微笑みを浮かべ、ポケットに手を突っ込み、どこへともなく歩きだした。
 タイトルバック。
 小雨の降る歓楽街。傘の花が咲く。アベック、家族連れ、仕事を終えたサラリーマンが行き交う御堂筋、そして道頓堀。角座では正司敏江・玲児が漫才をしていて、それがカットバックで入る。BGMは欧陽菲菲の「雨の御堂筋」・・・。
 
 こうやって書いていけば何となく察しはつくと思いますが、別に「あぶさん」という作品はどうでもいいんです。漫画としては好きだけど(しつこいようだけどあぶさんが福岡に行くまでは)、ま、ただの題材に過ぎない。
 アタシはね、あぶさんをダシにして「リアルな1970年代前半の大阪」を再現したいだけなのでありまして。
 この頃の、つまり1970年代前半の大阪には独特の「何か」を感じざるを得ず、しかし本気で<再現>を試みた作品は存在しない。
 何がそんなに魅力的なのか、具体的に書いていけば
 
 ・耳まで隠れる長めの、しかし襟足は短いパーマ
 ・ダブルの派手な色のスーツ
 ・オーデコロンとかポマードといった男性化粧品独特のニオイ
 ・これでもかといわんばかりのカラフルなネオン
 
 もちろんこれらの光景は大阪だけに限ったことではありませんが、先に挙げた「雨の御堂筋」や海原千里・万里(いうまでもないけど千里は後の上沼恵美子)の「大阪ラプソディー」といった楽曲、さらに上田正樹と有山じゅんじによる「ぼちぼちいこか」という名盤のインパクトが、リアルタイムでの記憶が薄いアタシ以降の世代のイメージを強烈にしたのかもしれません。
 本当は「ぼちぼちいこか」に収録された中から主題歌を選びたいけど、ま、微妙に時代がズレるし(「ぼちぼちいこか」のリリースは1975年)、「わかりやすさ」を考慮して「雨の御堂筋」でいいかなとね。
 
 だからと言って「あの頃のカッコよかった大阪を再現したい」みたいな気持ちはまるでないんです。はっきりいって今の目で見てね、カッコよくは、まったくない。
 でもこの時代くらいまでは、大阪特有のカッコよさ、みたいなもんを構築しようという気概みたいなものは感じる。
 もう今では信じられないかもしれないけど、中田カウス・ボタンとかアイドル芸人だったのですよ。何故たいして器量に恵まれたわけでもない彼らがアイドル芸人扱いだったかというと、先に挙げたような派手な扮装をしていたからです。つまり時代の最先端を身に纏っていた、といっていい。
 
 さてみなさん、大阪でもっとも象徴的な場所はどこだと思いますか?
 グリコの看板?なるほどなるほど。
 通天閣?たしかにたしかに。
 大阪城?もちろんもちろん。
 かに道楽?くいだおれ人形?そーゆーのも当然っちゃ当然。
 しかしアタシはまったく別の場所を思い浮かべます。そりゃね、超個人的なことを言えば「御堂筋をはり重から東に入ったところからひっかけ橋(戎橋)の間」ってことになってしまうんだけど、それでは大衆性というか共感性がなさすぎる。
 というかこれは個人的な思い出であって別に<大阪を象徴する場所>ではないですから。
 
 大阪に在住経験のない人にはピンとこないかもしれないけど、在住経験があれば誰しも、とは言わないまでも、ある程度は、そういやそこもアリやな、と思ってもらえそうなのが千日前です。
 千日前、というと大阪の人以外にはどう思われているのかわかりませんが、アタシの感覚でいえば道頓堀や通天閣なんかよりも一番大阪らしい大阪で、カレーライスでお馴染みの自由軒や、数件の古書店、「せんにちまぁえの千日堂~」のCMソングも懐かしい千日堂、今のNGKの前のなんば花月、名前は失念したけど全国販売ではない、大阪ローカル販売のレコードを数多く売ってたレコード屋とかね。さらにすぐ近くには黒門市場とか道具屋筋とかもあるし。
 
 ただし、千日前の歴史的経緯をよく知る人や霊感の強い人にはその限りではない。霊感云々はアタシ自身霊感が極端に弱いのでよくわからないんだけど、千日前で検索すれば「その手の噂話」が山のように引っかかってきます。
 これは歴史的経緯がそうさせたっていうか、千日前を説明するには少々堅苦しい話が必要になります。
 千日前交差点の南西辻には現在ビックカメラがあります。しかしアタシが大阪に居住していた1980年代後半には「プランタンなんば」という商業施設があったんです。
 プランタンというのは当時ダイエーが展開していたブランド(というかフランスの本家からブランドを借りていた)で、銀座にも店舗があったのでご存知の方も多いと思います。
 
 しかしアタシが初めて千日前に行った1980年頃はプランタンさえもまだ存在せず、記憶ではブルーシートで覆われていたように思う。
 さらにずーっと、江戸時代まで遡れば、この場所に刑場兼焼場があったと言われています。
 つまりはかなりの<いわくつき>の場所であり、噂が本当かどうかはともかく、そーゆー話が流布するのも納得は出来るわけで。
 とはいえ「ただの噂じゃないか。本当に悲惨な出来事が起こったわけでもあるまいに」ってことでもない。
 いやもう、ズバリ言えば、本当に、悲惨を超えて凄惨極まる出来事が起こったことがある。しかももともと刑場だった、つまり現在のビックカメラの場所で、です。
 
 刑場があったのは江戸時代までであり、ビックカメラの前にあったプランタンが出来たのが1984年です。この間に何が起こったのか。
 1912年(明治45年)に起きた「ミナミの大火」で千日前一帯は焼き払われてしまいます。
 しかしこれを期に、この一帯を一大レジャースポットにしようと目論んだ人物がおり、1914年(大正3年)に「楽天地」が誕生した。もちろんイーグルスの親玉の楽天とは何の関係もありません。
 Wikipediaによれば『地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていた。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演した。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で(中略)地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもあった。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めた。』とあります。こんなものを<大正のはじめに>作ったってのはすごいとしか言いようがない。
 しかし徐々に経営が上手くいかなくなり、結局昭和に入ってまもなく(1930年)に楽天地は閉鎖しています。
 
 解体された楽天地の跡に建築されたのが大阪歌舞伎座で、もちろん歌舞伎を上演するための小屋です。が、肝心の上方歌舞伎が衰退の一途を辿り、これも1958年に閉鎖されている。(のちに御堂筋沿いに作られた新歌舞伎座は歌舞伎だけでなく、商業演劇を興行の軸に据えて経営を安定させた)
 歌舞伎座亡きあとは居抜きで貸し出され、スーパーや小劇場、キャバレーなどが入店した。ま、早い話が<格式ある>歌舞伎小屋から<何でもあり>の雑居ビルに成り果ててしまったわけです。
 雑居ビルながら名称は「千日デパート」という立派(?)なものですが、もちろんデパートとはまったく業態が違います。
 千日デパートは千土地興業という会社が経営にあたっていました。
 楽天地の頃からこの場所の興行を握っていましたが、松竹の社長でもあった白井松次郎が経営に関わってきたのを期に松竹の系列となり、松竹が仕切っていた上方歌舞伎の興行を仕切ることになったことが大阪歌舞伎座を作るきっかけになった。
 ただこの千土地興業という会社、やたらに手広くやろうとする癖があって、奈良や横浜にドリームランドなる遊園地を作ったり(どうでもいい余談だけど、当初、奈良ドリームランドは「奈良<ディズニー>ランド」になる予定だった)、旅行会社を作ったりと「松竹本体ではやれない」いわば暗部を請け負った、とも言えるような気がします。
 
 とにかく楽天地、大阪歌舞伎座に続いて千日デパートも千土地興業が仕切っていたわけですが、かなり酷い管理状態だったと言われています。
 何しろ大阪歌舞伎座の建物をまんま使っているのですから、建立は1932年ということになる。つまりは戦前の建築基準で作られた建物です。
 千日デパートになってから再三再四の「防火対策を強化するように」という行政指導を受けていますがそれを無視し、ま、無視は言い過ぎか。何にしろ十分な防火対策が取れてない状態だったわけで、この甘い見立てが強烈なしっぺ返しを生むことになります。
 そう、1972年に起こった大火災、通称「千日デパート火災」です。
 出火場所は3階にテナントで入っていたスーパーだと言われていますが、時間は22時半頃。つまり店内には警備員以外は客や店員を含めて誰もいないはずです。
 にもかかわらず死者118人、負傷者81人を出す大惨事になったのは、このビルが雑居ビルだったからです。
 スーパーはとっくに営業を終了していましたが、7階に入居していたアルサロ(アルバイトサロンの略。現在のキャバクラに近い)は23時前ならばむしろかきいれ時です。実際、出火当時ビル内にいたほとんどはアルサロの客、もしくはホステスなどの従業員でした。
 死者数が118人ということは、ビル内にいた約180人のうち2/3の方々が亡くなった計算になります。しかし脆弱な防火対策しかなされていなかったわりには、よく1/3は助かったな、とすら思ってしまいます。
 
 アタシがこの千日デパート火災という未曾有の事故に興味を惹きつけられたのは、大阪一の繁華街である千日前という舞台と時代背景があるからです。
 アルサロで被災された方々が「あの時代の大阪に似つかわしい」格好をしていたことは、おそらく間違いない。逆にいえば、大阪が大阪としてのアイデンティティ(けして東京の真似でもなければ、東京から押し付けられた発展途上国的扱いでもない)だけを記憶しながら亡くなった、といっていい。
 それはね、こういうことを書くと遺族の方に怒られそうですが、ほんの少しだけ、羨ましいことでもあると思うんです。
 不幸にもアタシの叔父は二度の震災を味わった。神戸生まれの叔父が阪神大震災で被災したのは、まあどうしようもないとしても、諸事情から東北に転居して、そこでも被災してしまった。叔父が亡くなる半年前のことです。
 どうせなら2011年3月11日より前に、とアタシは思ってしまう。長く生きられるのなら、それはそれでいいですよ。でもたった半年生きるために、あの震災を味わなきゃいけなかったってのはムゴすぎる。
 人間ってのは誰でも死ぬのです。それはしょうがない。
 だったら一番いいタイミングで死にたい。嫌な出来事がおとずれる前に。
 
 大阪は大阪の良さがある。アタシは今の、東京の真似だったり、押し付けられた発展途上国的扱いである大阪がいいなんて思わない。やはり、1970年代までの大阪は素晴らしいと、感じてしまう。
 その時代に亡くなられた方は、そういう意味で「いいタイミング」だったんじゃないかと思うわけで。
 
 
 (初稿 2015年10月12日更新「千日デパート火災を読み解かない」、2015年11月24日更新「1970年代大阪エレジー」、2017年09月23日更新「共通項のない街・ナンバ」、2019年1月25日更新「唄はなつかし・梅田からナンバまで」他・改稿 2019年4月8日)