哀しすぎるぞ『新馬鹿時代』
 ♪ かわいい かわいい 魚屋さんッ
   ままごと遊びの 魚屋さんッ
 
 何を突然、と思われるでしょうが、まァ、アタシの話を聞いてください。あ、先輩も聞いてください!
 この「かわいい魚屋さん」ね、昔、そうだな、少なくともアタシが関西に住み続けていた1993年くらいまではね、この歌と「てっちゃんの歌」がわりとゴッチャになっていたんです。
 「てっちゃんの歌」っても関西在住経験のない人には馴染みがないかもしれませんが、ま、要するに「かねてつ」という蒲鉾メーカーのCMソングです。
 
 かねてつには「てっちゃん」というキャラクターがいるのですが、軽く調べたところによると、どうも本当に「かわいい魚屋さん」のイメージを膨らませて、さらに「日本の歴史上もっとも有名な魚屋」である一心太助(ま、架空の人物みたいだけど)のイメージも混ぜ込んで作られたキャラクターらしい。
 だからおそらく「てっちゃんの歌」も「かわいい魚屋さん」に似た感じにして欲しい、という要望がかねてつサイドからあったんでしょうね。実際アタシがゴッチャになる程度には似てるから。
 ちなみに「てっちゃんの歌」の作曲はシンセサイザーの巨匠・冨田勲。うん、なんだこのミスマッチ感。
 
 以降、アタシも関東での居住が長くなって、つか関東ではほとんどかねてつの製品が売ってない。つまりかねてつのCMも流れてないわけでね。それどころか関西でもまだかねてつのCMが流れているのか、んで「てっちゃんの歌」が変わらず使われているのかも把握できていなかった。
 だからもう、記憶から「てっちゃんの歌」とか消えかかっていたんです。同時に「かわいい魚屋さん」を聴いても「てっちゃんの歌」とゴッチャになることもなくなったわけで。
 
 それが変わったのは2010年代半ばになって、アタシの戦前モダニズムブームの熱が帯びてきてからです。
 この頃再び「かわいい魚屋さん」がちゃんと歌えなくなってしまった。でもゴッチャになったのは「てっちゃんの歌」ではない。では何か、なのですが。
 最初に聴いた時は「何かに似てるなァ」くらいだったんですよ。それがしばらくして偶然閃いた。あ、そうか、これ、かわいい魚屋さんだ、と。
 それがね、榎本健一、通称エノケンと、古川緑波、通称ロッパが歌った「ちょいといけます」だったわけでして。
 
 ♪ なッにから なッにまで うッらがあるゥ
   抜ッけ裏 路ッ地裏 うッらの裏ァ
   ピンかァらキリまで ウラオモテ~
 
 「ちょいといけます」という歌を知らない人でも「かわいい魚屋さん」を知っていれば歌えます。ま、かなりっつーか相当強引だけど。
 つまり「ちょいといけます」は「かわいい魚屋さん」同様、どこをどう切り取っても暗い曲じゃない。何しろ作られたのが1947年なので世相への風刺は入っているのですが、それでもエノケンとロッパという喜劇界の雄のデュエットなんだから明るくてユーモアに溢れている。
 この曲は映画の主題歌でした。映画のタイトルは「新馬鹿時代」。ま、ほとんどの人が観たことがないはずです。ネット上でも批評とかあんまりないしね。
 でも「タイトルだけなら知ってる」って人はそれなりにいると思う。この「タイトルだけなら」ってところにこの映画の存在価値が集約されていると思うんです。
 
 さて、2015年の春に世田谷美術館で「東宝スタジオ展」が開催されました。これは当然のように見に行ったんだけど、想像以上に充実したイベントで、展示物には目を見張るものがありました。
 まあ、東宝といえば黒澤明なわけで「七人の侍」関係は本当に充実していて、6ミリテープの現物とか初めて見たよ。
 「七人の侍」だけじゃなくね、「酔いどれ天使」のロケハン写真なんかもあって。その中に「新馬鹿時代」のセットの写真もあった。
 
 これはファンには有名ですが、元々「酔いどれ天使」は「新馬鹿時代」で作った闇市のセットがあまりにも大掛かりで、一作だけで潰すのはもったいない、となったことで出された企画のひとつです。
 「酔いどれ天使」は数ある黒澤明作品の中でも一番好きな作品で(また語弊があること書いちゃったな、正直一番なんて決められん。それくらい好きだってことで)、アタシだけじゃなく世間の評価も知名度も極めて高い。
 では「新馬鹿時代」は、というと、まず観ることすら困難で、DVDにもなってないし、名画座で上映されることも稀です。何より「新馬鹿時代」のセット写真が「酔いどれ天使」の関連資料として展示されたことは、両作品の置かれた立場を明白に表してします。
 
 戦前、舞台、映画ともに東宝のドル箱だったのがエノケン一座とロッパ一座で、その中心はもちろんエノケンとロッパです。
 ふたりはプライベートでは淡い友人関係だったようですが、仕事にかんしては衆知の目同様ライバル意識が強かったようで、戦前戦中の時点では共演を果たしていません。(ただし極秘裏で共演を計画したり、ロッパがエノケン一座の台本を書くなんて話はあったようですが)
 戦後、1947年になって、まず舞台「弥次喜多道中膝栗毛」で初共演するのですが、本人たちはかなり神経を尖らせていたものの実際は「夢の共演」でも何でもなく、人気が凋落気味の両者をまとめてしまおうってのが東宝の思惑だったようです。
 
 といっても東宝としても「夢の共演」ってことにしておいた方が人気を呼びやすいのもわかっていたようで、舞台に続いてダブル主演映画も製作された。
 当初は「弥次喜多道中膝栗毛」を映画化する予定だったようですがGHQからダメ出しを食らい、急遽小國英雄によるオリジナル現代劇になったらしい。
 この台本はロッパの発案で「新馬鹿時代」と題されることになるのですが、当時は東宝争議の最中で製作本数が極端に減っていたにもかかわらず東宝本体で作られ、さきほど書いたように「一作だけで潰すのはもったいない」と思わせるような大セットを組むなど、非常にカネのかかった大作として作られたのです。
 
 監督には、今では黒澤明の師匠としての方が有名ですが、音楽喜劇、そして特撮スペクタクル劇両面で東宝カラーの基礎を築いた山本嘉次郎、脚本には先程書いたように小國英雄が据えられています。
 両者は戦前からエノケン映画、ロッパ映画でそれぞれ最重要スタッフで、とくに小國英雄の生涯たった二本の監督作品のうち一本はロッパ映画(「ロッパ歌の都へ行く」)でした。
 エノケンもロッパも知り尽くした最強のコンビによる陣営を揃え、いわば予算面でもスタッフ面でもこれ以上はない体制で作られたのです。
 
 にもかかわらず、とにかく「新馬鹿時代」には評価がない。芳しい芳しくない以前に評価がないのです。
 「エノケン・ロッパの時代」でも「日本の喜劇人」でも「哀しすぎるぞ、ロッパ」でも「エノケンと<東京喜劇>の黄金時代」でも「エノケンと呼ばれた男」でも、当然映画自体には触れているけど映画自体の評価が書いてない。(「日本の喜劇人」にはわずかに「追っかけのシーンがいけない」みたいなことは書いてあるけど)
 「新馬鹿時代」に評価がない理由としてまず考えられるのが、リアルタイムで観ないと何の実感もない作風だからです。
 
 この映画は闇市を舞台にしています。そして主題歌(「ちょいといけます」)の歌詞通り、闇市という裏社会の、さらに裏を描こうとしている。
 アタシだって当然闇市の存在は知ってるし、同じセットで作られた(実際は沼を作ったりかなり変えたらしいけど)「酔いどれ天使」を見ても、そこはヤクザが仕切る世界だったことはわかる。
 ただ「酔いどれ天使」は無駄がなく、エンターテインメントとして不必要な箇所は削ぎ落とされており、今見ても「闇市が舞台の話だからわからない」なんてことにはならない。
 
 ところが「新馬鹿時代」は闇市を知識として知ってるだけじゃ太刀打ちできないのです。
 この作品を面白がれるには、本当に闇市に足を踏み入れたことがある必要があるんじゃないかと。つまり<実感>としての闇市です。何せ監督の山本嘉次郎も脚本の小國英雄も闇市の「裏の裏」を描こうとしてるんだから、最低でも「実感としての闇市の表裏」を知ってることが条件になる。
 リアルタイムではほぼすべての観客が当てはまったんだろうけど、これでは後年になっての、ましてや闇市に足を踏み入れた世代の人が少なくなった現在では評価のしようがない。
 
 もうひとつ理由を挙げるなら、ジャンルが不明っつーか、「ブレ」があるんです。
 エノケンとロッパが主演で、タイトルが「新馬鹿時代」なんだから当然喜劇と思われるでしょう。
 アタシもそのつもりで観始めた。事実、タイトルバックはアニメーションを使った軽快なものだし、序盤は(小林信彦が「いけない」と評した)エノケンとロッパの追っかけもある。
 ところが悪役となる闇市を牛耳るボスと右腕(なんと後の黒澤明作品の主演コンビである三船敏郎と志村喬!)が登場する頃から空気がどんどん重くなってくる。
 それでも前篇は唐突なオチまで、まあ喜劇といえないこともない。
 
 ところが后篇(後編)になるとシャレで済まなくなってくる。
 后篇も序盤はまだ「エノケンの千万長者」を思わせる散財シーンがあったりして(ダンスホールでの音楽がちゃんと<戦後風>なのが面白い)まだマシなんだけど、エノケンとロッパが徹底的に追い詰められて、大金を騙し取られるわ、ロッパの家が火事になるわ、息子が全身大火傷を負うわ(顔まで包帯姿なのはギャグかどうかの判断がつきかねる。ギャグにしてはあまりにも残酷だし)、とにかく、もう重いわ可哀想だわで見てられない。
 
 それこそ「千万長者」でもエノケンがルンペン寸前まで落ちぶれるシーンとかあるけど、あっちは全然軽い。それに比べて、いや比べなくても「新馬鹿時代」は重すぎるのです。
 何しろタッチが全然喜劇風じゃない。飴売りがリンチされるシーンなどリアルすぎて、いやリアルなのは全然いいんだけど、戦前のエノケンやロッパが作ってきた軽い喜劇のつもりで見た人間(おそらくリアルタイムでもいっぱいいたはず)には辛すぎる。
 中盤の、エノケンの女房役である花井蘭子の鼻緒が切れるシーンあたりから、あまりにも風刺色が濃いラスト前まで、笑いがまったくないのです。(一応幕切れ寸前に「とってつけたような」ギャグが入ってるけど)
 ギャグが古いとかそんな話じゃない。笑わせようとする意思が一切見えず、徹底的にハードな描写で闇市の是非を問いかけてくる。
 正直、観終わってもなお「これは喜劇映画です」と言い張れる人はいないんじゃないかね。
 
 戦後、エノケンもロッパも人気凋落気味だったと書きましたが、彼らによるミュージカル風のエンターテインメント喜劇自体は終戦を境に色褪せたものになっていました。
 代わりに台頭してきたのは「肉体の門」に代表されるリアルでハードな演劇で、そういう意味では「新馬鹿時代」は時代の空気に則った作品といえるはずです。
 それにしてもこの戦後の空気と、戦前のエンターテインメントの雄であるエノケン、そしてロッパとのミスマッチぶりが凄い。主役であるはずのふたりは完全に戦前の世界からきた「ヨソ者」であり、悪役であるはずの三船・志村コンビの方が「戦後の空気」を身に纏っていて圧倒的に魅力的なのです。
 演出が悪いわけでも脚本が悪いわけでも、そしてエノケンとロッパの演技が悪いってことでもない。
 ただ、もうひたすら、彼らが時代遅れの存在であるがばっかりに、何をどう評価していいのか不明になってしまったんじゃないかと。
 
 それでもアタシが「新馬鹿時代」を失敗作と決めつけられないのは、主演のふたりの哀愁がハンパじゃないからです。
 とくにラスト間際の、ロッパが新聞記者に心根をぶち撒けるシーンは、本人の演技の意識とはまったく関係なしに、戦前の世界からやって来た「ヨソ者」の悲しみの吐露に思えてきて、アタシの胸を突くのです。
 実際エノケンもロッパも、東宝からも世間からも金看板として扱われたのは「新馬鹿時代」が最後で、三年後に夢よもう一度、とばかりに「エノケン・ロッパの弥次喜多ブギウギ道中」を撮ったり、日本喜劇人協会として舞台と映画で共演していますが、後年の、喜劇人としてのエノケンとロッパの評価はまったくない。
 だから「新馬鹿時代」は最後の輝きといえそうなもんだけど、実際は最高のスタッフと予算をかけた作品にもかかわらず、彼らの時代遅れ感だけが目立った作品になってしまった。
 
 だけれども、それは時代が変わっただけの話です。「時代に合わせられなかった彼らが悪い」なんて意見は、如何に笑わせることが大変かわかってない部外者の意見でしかない。
 「戦後の空気を身に纏った」三船敏郎と志村喬に徹底的にコツキ回されながらも、必死になって動き回って身体をはるエノケン、苦渋に満ちた表情で悲しみをあらわすロッパ。
 その後、本当に「戦後文化にコツキ回され」て、エノケンとロッパはさらなる凋落を迎えます。そんな後年のフィルターが入ってることは否定しません。でもそこにアタシは必要以上に感情移入してしまうのです。
 
 
 (初稿 2015年7月7、8日更新「『新馬鹿時代』のこと」、2018年6月23日更新「唄はなつかし・ついゴッチャになる曲いろいろ」他・改稿 2019年3月11日)