孤独のシノギ
 竹内まりやの「幸せのものさし」の歌詞の中に「自由と孤独はふたつでセット」ってなフレーズがあります。
 本当に自由と孤独はセットなのか、考え始めるといろいろ面白いことがわかったり思い出したりしたんでね。

 まずその前に、孤独とはどういう状態なのか、みたいなところから話を始めます。
 欅坂46の楽曲に「キミガイナイ」なんてのがあるそうです。ま、アタシはアイドルには疎いというか、生まれてこのかたアイドルに興味を持ったことがない人間なので、欅坂46という名前はともかく「キミガイナイ」なんて楽曲は聴いたことがあるわけがなかった。
 たまたまネットで知ったんだけど、歌詞の中にアタシが前々から考えていたことが含まれてるっぽいんでね、それでちょっくら聴いてみたわけです。

 ♪ ほんとォォのッ こどォくゥはッ
   だッれもいないッ ことじゃなァくゥ
   だッれッかッがァいる はずなのォに
   一人にされてるこの状況〜

 作詞は秋元康だけど、まさにその通り、としか言いようがない。そうなんです。本当の孤独はひとりぼっちの時にはおとずれないんですよ。
 たとえば、ニートでも引きこもりでも自宅警備員でもいいのですが、まあそういう人たちはたいして孤独じゃないと思うんですね。他人から見ればリアル世界で触れ合いがないなんて孤独そのものじゃないかと思えそうですが、これは意外とそうでもない。
 でも、それはネットがあるからだよねって話でもないと思うわけで。
 自己防衛本能や自己催眠の一種なんでしょうが、彼らはなかば無理矢理にでも自分の世界に没頭しているわけです。たしかに辛い部分があるかもしれないけど、でも孤独で辛い、とは違う。つまりネットがあろうがなかろうが、孤独かどうかはほとんど関係ないんじゃないかと。

 別にこれは自宅警備員に限った話じゃなくてね、ひとりでいる時は自分の世界に逃げ込めばいいだけだから案外孤独じゃないんです。
 本当に辛いのは、先ほどの「キミガイナイ」で描かれている通り、他人と一緒にいる時なんです。自分の世界に逃げれないからね。
 そりゃね、自分の考えを「ある程度レベル」でも理解してくれる人がひとりでもいれば、そこまで孤独感はない。でも自分ではさしてオカシナことを言ってるつもりもないのに、誰に話しかけようが「は?なんなのアンタ」みたいな反応ばっかりだと、もう孤独感がハンパじゃないっつーか。

 たとえば猛烈に濃い付き合いのあるグループにポンと放り込まれた時、しかもそのグループの人らはまったく自分が眼中にない、みたいな状況を想像してみてくださいな。そんな状況下でも「俺は全然気にせずドンドン話しかけるよ」って人は、極めて少数でしょうが、いることはいる。
 でもことごとく「アンタさっきから何いってんの。アンタは関係ないでしょ」みたいなリアクションを繰り返されて、なお気にせず話しかけられる人は、もう人間じゃないし、そんな人になりたいとも思わない。

 ま、それはその通りなんですけどね・・・

 あれは小学三年生の時でした。いうちゃナンだけど、小学一年二年の時のアタシは完全にオミソ状態でした。勉強もスポーツもできないから目立ちようもないし。
 それが三年の時の担任の先生が非常にいい先生で、そこから少しずつ自分を出せるようになったんです。
 国語の授業の時でした。
 もう内容とか忘れたけど、教科書のとある詩を読んで、これは誰の立場から書かれた詩か、と先生が問うたわけです。
 仮にAとBとします。アタシはAの人の立場から書かれた詩だったと思ったので、迷わず挙手しました。しかし挙手したのはアタシだけ。他全員はBで挙手したのです。

 しまった!やってしまった!!

 この時の心臓バクバク感は言葉では言い表せません。孤独どころの騒ぎじゃない。自分だけオカシイのだ、そう本気で思ったのです。
 先生はアタシに「何故Aだと思ったのか?」と問いかけます。やっちまった感で覆われていたアタシでしたが、この問いかけで少し冷静さを取り戻した。そして、改めて考えてみたけど、やっぱりAの立場で書かれた詩としか思えなかった。
 口下手なアタシはポツポツと、何故Aだと思ったのかを説明しました。その間先生はずっと頷きながら話を聞いている。
 続いてクラスでもトップクラスに勉強ができる子が、何故Bなのか理路整然と説明した。具体的には忘れたけど、とにかく模範解答みたいな答弁だったことだけを憶えている。答弁って。

 両方の意見を聞いて、先生は再び挙手を求めました。
 おい、やめてくれよ!また恥をかかせるつもりかと。
 「ではAだと思う人」
 アタシは当然手を挙げます。ああ、またとんでもないことをしてしまった、心の中でみんな自分を笑ってるんだろうな・・・。
 ところが奇跡が起きます。なんとアタシ以外にも数名がAで手を挙げていたのです。
 もちろん過半数には全然満たない。でも<ひとりぼっち>だった数分前とはまったく状況が変わったのです。
 Bは当然過半数以上。そこで先生がポツリと呟いたのです。

 「どっちが正しいかはわからんけど、俺は○○(←アタシのこと)の意見の方が納得できたな」

 あんな嬉しかったことは、少なくとも学校生活においては初めてのことだった。
 アタシの意見に<共感>して数名が翻ったこと、そして先生から「意見に納得できた」という最高の褒め言葉イコール<共感>をもらったこと。これが嬉しくないわけがない。
 つかね、これは実質勝利ですよ。数の上では負けたけど、最高権力者(この場合は先生)を納得させられたのだから、贔屓目抜きで見ても引き分け。絶対に惜敗ではない。
 しかも1対40以上から盛り返して、ですからね。

 さてさて、話は変わるようですが、一時期Facebookが「いいね!」ボタンを「共感」に変えよう、なんて話が浮上していたようです。結果的には全然別の実装になったけど、そんな噂があったのは間違いない。
 たしかに「いいね!」は、やはり、あんまりよろしくない。どうしても「いいね」という言葉には「羨ましい」という感情も含まれるはずで、某2ちゃんねら(5ちゃんねら、か)がいうところの「Facebookは自慢大会」になりやすい。
 おそらく「いいね」が良くない、というか変更しようとした理由は、悲しいエントリにたいして、「いいね」は押しづらいってのがあったと思う。良い出来事じゃないからね。
 羨ましい出来事じゃない、でも「気持ちはわかる」という時は「共感」なら、押すことができる。そのような感じでしょうか。

 しかしそれより、自慢大会と揶揄されがちなFacebookの存在意義をはっきりさせる意味合いも皆無じゃないと思う。
 「共感」にしろ、絵文字を使ったものにしろ、自慢以外のこともエントリして欲しいっていうFacebookの意思表示なんでしょうな。
 個人的には「共感」にしなくて良かったと思う。何故ならまた別の問題も出てきたと思うから。
 これは「いいね!」の数が少ない時にわかる。
 「いいね!」なら、数が少なければ、ああ、こういうことは羨ましいことじゃないんだ、とエントリを上げた側は思える。まァ、心理的な「逃げ」です。
 ところが「共感」ボタンになってしまうと、そうした「逃げ」はなくなる。もし「共感」の数が少ないと、自分の考えや自分の体験は、あまり共感されないことなんだ、と。

 これはFacebookに限らず言えることなのですが、共感を得られない状態のことを孤独と呼ぶのだと思うんですよ。
 つまり共感の反対が孤独ってことになる。自分に共感してくれる人がいればいるほど、孤独ではない。いや単純に数の問題ではなく、より深く共感してくれる人がいれば、または先に書いた小学三年の時のアタシの出来事みたいに、たとえ数名でも翻ってくれる人がいれば、仮に数は少なくても、やはり孤独ではない。
 つまり、家庭があろうが、多人数いる職場で働こうが、周りに共感してくれる人がいなければ、その人は孤独です。
 逆に、一人暮らしだろうが、あまり人と接触することのない仕事であろうが、そういう人もね、共感してくれる人さえいれば、その人は孤独ではない、と言い切れます。

 では自由とはどういったものなのか、です。
 一番大きい自由は「カネの自由」です。これは極めて重要です。
 いくら自分の時間があっても、ある程度のカネの自由がなければ何も出来ない。そういう世の中なんだから、これはもうどうしようもない。
 本当にカネがあれば、それはそれで、いくらでも自分の時間なんて作れるしね。
 だから親元で暮らすニートなんて、ちっとも自由だなんて思わない。やれることが限定されすぎてるもん。

 さあ、ではここで、改めて「自由と孤独はセット」かどうかを考えます。
 ここまでを踏まえれば、金持ちは共感を呼びにくいのかってことになるわけだけど、これはまったく外れているわけではないと思う。それこそ「人間と嫉妬の感情はセット」なんだから、どうしても金持ちは共感を得づらい。
 アタシはね、妬みや嫉みの感情を一切受けない金持ちなんていないと思ってる。どれだけの人格者だろうが、カネを持ってるだけで絶対嫉妬の対象になる。
 もちろんカネの有無関係なく、共感してくれる人はいると思います。具体的には知らないけど、ビル・ゲイツに心から共感している人だって、いないとは言い切れない。
 だから本当に金持ちは孤独か、となると、それは人による、というどうしようもない答えしか出来ないんだけど、孤独になりやすい条件は揃ってる気がするんです。

 そう考えると、竹内まりやの「幸せのものさし」の歌詞は深い。一見、バリバリ仕事をこなしてきた独身キャリアウーマンの結婚とか家庭への憧れ、みたいな歌詞だけど(そういう内容のドラマの主題歌だったし)、実は「自由になるカネを持ってる人への妬みを表現した」歌詞だったとは。
 ま、真相は竹内まりやのみぞ知る、ですがね。


 (初稿 2015年2月24日更新「孤独のシノギ」、2015年10月11日更新「自由と孤独」他・改稿 2019年2月11日)