ステレオタイプの活かし方
 みなさん、「恋のチカラ」というドラマを憶えてらっしゃいますでしょうか。つかそもそも見たことがあるんでしょうかね。
 放送されたのは2002年らしい。<らしい>なんてデタラメなことを書きましたが、この頃アタシは馬鹿みたいに忙しい会社で働いていたので見れるわけがない。
 アタシが見たのは3年後。つまり再放送で見たっつー。
 
 こーゆー書き方をしたら「隠れた名作!オススメ!」と受け取られるかもしれませんが、そういうんじゃぜんぜんない。あくまで個人的感想ですが、とてもじゃないけど良く出来たドラマとは思えなかったわけで。
 このドラマの舞台は広告代理店だったんだけど、アタシも一応とはいえ広告代理店に勤務してた経験があるんでね。何つーか、あまりにもツッコミどころが多すぎるというか。いったいどんな広告代理店だよと。
 ただね、そりゃあいくらなんでもあり得ないだろ、みたいにツッコミながら見てたら意外と面白くて。ま、それはドラマとしての面白さとは何の関係もないんだけどさ。
 それでもこのドラマのことを憶えているのは、一話だけ谷原章介が出てたからなんです。たぶんまだそんなにドラマとか出てなかった頃だと思う。
 これがねぇ、いやー、何といったらいいのか、この時点ですでに完成されてるわ。完全に谷原。ホントいいもの見せてもらった気分になったという。
 
 谷原章介と言えば「アタック25」とか「うたコン」などでの司会業が完全に板についていますが、その前にやってた「王様のブランチ」の頃からすでにサマになってたし、何となく、これはそっちの方向に行くのかな、とは思っていたんです。
 というか、もっともドラマに出ていた頃の谷原章介の役って、たぶん今しか出来ないよな、みたいな役ばっかりだったんですよ。
 具体的には「キザでお金持っていて、主人公のライバルとして現れる30代の二枚目」。もう見事なまでに、どのドラマでも一緒だったからね。
 でもそれが谷原章介の魅力でね。谷原の魅力、それはある意味<ワンオブゼム>なところにあります。オンリーワンではなくワンオブゼム。例えるなら
 
 【谷原章介のありえない世界】
 ・谷原の世界にビンボーはない
 ・谷原の世界に激怒はない
 ・谷原の世界にハッピーエンドはない

 
 こんな役をやってた頃にね、もし目の前に火の鳥がいたとしたら絶対捕まえて谷原章介に飲ませたかった。谷原は年とっちゃいけない。いつまでもあのナリのままで生きていてもらわなきゃいけない、と思ったから。
 当時のドラマでの使い方をみるに、そして年齢的に「キザでお金持っていて、主人公のライバルとして現れる30代の二枚目」を演じるのが苦しくなって司会業に転身に近い形になった現在をみるに、結局谷原章介には老成の味とか演技の深みとかは求められてなかった、ということなのでしょう。
 
 しかしこういうね、どの映画orテレビドラマを見ても同じような役で出てくる、と言うのは、もちろん谷原章介が芸能史上初めてではない。つか昔の方がそういう役者が多かったくらいでして。
 例えば田武謙三という役者がいました。ま、どれもこれも、というわけじゃないけど、大抵は「社長とかそれなりの立場だけど、とにかく胡散臭い」役で出てくる。んで見るからに小者臭を漂わせているんですよ。
 他にはほぼ三国人専門で出てくる藤村有弘とか、気は弱いが常に陰口を叩いてる、みたいな佐山俊二とか。
 谷原章介も含めてなんだけど、アタシはこういう役者を<記号的演技者>と呼びたい。とにかく出てきた瞬間に、そのキャラクターの立場なり目的なりが一発でわかる役者というか。もちろん前知識があるなしは関係ない。その人が醸し出す雰囲気だけでキャラクターをズバッと表現できる、んでどの作品を見ても似たような役でしか出てこない、みたいな。
 こうした記号的演技者にたいして、もっと評価を与えてもいいんじゃないかとずっと思ってるわけでして。
 
 いやね、田武謙三も藤村有弘も、もちろん谷原章介だって「記号的演技者」を志してたわけじゃないでしょう。たまたまそういう役にハマっただけだってのはわかっている。
 けどこれだけいろんな世界から役者が集まってきてるんだから、みんながみんな器用で上手いを目指すんじゃなくて、ひとりくらい「自分は記号的演技者を目指してます!」なんてのがいてもいいんじゃないかね。
 というかそういう役者がいるといないとでは作れるフィクションの幅に違いが出ると思うんですよね。
 
 今の邦画と昔の邦画のどっちが優れているか比較するのはナンセンスですが、確実にいえるのは今の邦画はやたら登場人物が少ないんですよ。逆にいえば昔の邦画は登場人物が多い。
 今の邦画って群衆みたいな感じでエキストラがいっぱい出てくることはあっても、ちゃんと役名がある人がずらっとキャストロールに並ぶことはほとんどない。あってもそれはテレビドラマの映画化とか、漫画や小説の映画化、あと続編とかね、とにかく別の場所で登場人物の詳細を語れる<大元>がある場合に限ります。
 ところが昔の邦画は、60~90分程度の(続編でも何かの映画化でもない、正真正銘の一回こっきりの)添え物映画でも役名がつくレベルのキャラクターがどんどん出てくるんです。
 当然すべてのキャラクターが深く掘り下げられてるかといえば、そんなことはあり得ないわけですが、それだけ登場人物が多いのは、記号的演技者のおかげなんですね。
 
 田武謙三が出てくれば「それなりの立場の人間だけど胡散臭い小者」だとすぐわかるし、藤村有弘なら「インチキ臭い怪三国人」だとわかる。北あけみなら「過剰な色気で主人公を誘惑する敵方の手先」と、ね。
 こういう役者がいないと物語なんてたいして進まないと思うんですよ。特に添え物程度の尺の場合、それっぽく見えない役者が実は・・・みたいな、わざわざ回りくどく説明してたらいくら尺があっても足りない。
 つまり物語を円滑に進める潤滑油になってるんだから、むしろ絶対必要とさえ言える。説明不要、毎度お馴染みのキャラクター、仮に知らなくても見ればどんな役か一発でわかるってのも十分「いい演技者」じゃないですかね。
 
 ただね、たしかに記号的演技者は必要だと思う反面、ステレオタイプなキャラクターはかなり慎重にやらなきゃいけないと思う。
 記号的演技者(の演じる役)とステレオタイプキャラクター、どこがどう違うか説明するのは難しいのですが、先ほど書いたように記号的演技者が潤滑油である場合が多いのにたいし、ステレオタイプキャラクターは<捨てキャラ>の場合が多い。
 物語上はいてもいなくてもいい。しかし無理矢理キャラクター付けをしたがためにステレオタイプになってしまってるケースが多いのではないかと。
 
 ステレオタイプなキャラクターの何がマズいかというと、無意味な反感を買いやすいんですよ。アタシもよく例に挙げる大阪人のステレオタイプキャラクターとか典型で、ま、大半の人は「またやってるよ」と笑って見てるんでしょうが、一部の真面目な人は本気で怒ったりする。そういうことは記号的演技者の役ではほぼ起こりえないからね。
 とくにね、地域でステレオタイプをやるってのは、もう極端なほど注意しなきゃいけないと思う。しかもたいして効果もないと思うしさ。
 
 さて、いつだったか、ちょっと本気で驚いたことがあってね。
 ファミレスの隣のテーブルなんですが、老夫婦と思われる男女が一名ずつ、そしてもうひとり、見るからに異様な空気を身に纏った、おそらく30代くらいの男性が座ってたのです。
 アタシは「趣味・人間観察」じゃないから、隣にどんな人がいようが、基本気にしないし目を向けることもない。
 でも、やたら特徴的な喋りが聞こえてきてね、気になってしょうがなかった。
 とにかく老夫婦の声は一切聞こえず、30代男性がひとりで喋ってるのですが、上ずった声で、一方的に知識のあることだけを開陳してる感じでね。
 あ、もしかしたら、これこそステレオタイプなオタクじゃないか、と。
 他にも特徴を挙げるなら
 
 ・常に半笑い
 ・妙に芝居がかっている
 ・話が異常に長い
 ・上から目線
 ・変な息継ぎ

 
 いやいや、何度もいうように、アタシは他人にそこまで関心はないのですが、もう例外として見入っちゃった。すごい、と心から感嘆したのです。
 何より異様なのは、相手が友人ではなく「老夫婦」ってところで、もしかしたら親子かもしれない。
 老夫婦は30代男性の話を興味なさそうに聞いている(もしかしたら呆れてたのかもしれない)。なのに男性は、そんなことは一切気にとめる様子もなく、とにかく一方的に「今から私が正解をお話ししますよ」みたいな態度で延々と喋り続けてる。
 これはいったい何なんだ、と。
 
 当然、何か、そこのテーブルだけ、異様な空気が流れている。その空気の源は、もちろん老夫婦ではなく30代男性です。
 ああ、やっぱ、ホンモノは空気が違うもんだ、とアタシは感心したのですが、ひとつ気づいたことがあった。
 というのも、どうも、当の男性、自分のせいで変な空気感になってるのに一切気づいてないらしい。というか、ちゃんと「普通の人」の芝居が出来てると思ってるっぽかった。
 何かこういう人って、他人にどう見られているのかにかんして、異常なまでにセンシティブだと思ってたんだけど、この男性にかんしては違った。周りを気にしている様子も皆無だったし、それどころか「聞き手」の老夫婦の様子をうかがう風でもなかった。
 最後は満足しきった顔で帰っていきましたよ、ええ。
 
 ネットでキョロ充なんて言葉があります。周りの目を気にしすぎて、必要以上に周りに合わせてしまう、みたいな人のことを指すのですが、ま、このタイプの人たちはセンシティブといえると思います。
 アタシは何となく、オタクと言われる人はさらにセンシティブで、自分が傷つくのを極端に恐れている、みたいに思ってたのですが、もしかしたらこれは逆なんじゃないかと。
 つかね、会話ってのは「相手が興味のある話題をする」のが基本です。それをガン無視して、自分が喋りたいことを喋るってのは、もはや会話ではない。もしくは会話をする気がないわけで、そんな人がセンシティブなわけがないのです。
 アタシはそこに不安を感じる。
 どうしても「オタクのステレオタイプ」というと、例に挙げた男性のような喋り方をする、みたいになるのですが、同時に極めてセンシティブなキャラクターとして描かれることが多い。
 もうこれは、ダブルスタンダード寸前です。
 もちろん極めてセンシティブなオタクもいるとは思うんです。しかしそういう人は、先の男性のような喋り方はしないような気がする。つまり典型的なオタク喋りじゃなくなるわけで、そうなるとステレオタイプから外れてしまいます。
 
 さっき書いた大阪人のステレオタイプもそうなんですよ。
 何でもかんでも冗談をまぶして喋る人が、大阪の悪口を言われて怒るわけがない。それも冗談で返すのが普通でしょうが。
 ステレオタイプの恐ろしさ、それは常にダブルスタンダードの危険性を孕んでいる、もっといえば、そのキャラクターの性格が支離滅裂になってしまう可能性があるのです。
 フィクションのキャラクターは現実ではありません。複雑怪奇な内面のキャラクターは、せいぜいひとつの話につき、ひとりいれば十分です。
 それに先ほど書いたようにステレオタイプのキャラクターは単純極まる「捨てキャラ」の場合が多い。
 ところが単純化するためステレオタイプにしたら余計性格がわからなくなるってのは、もうステレオタイプに何の意味もないといってもいい。
 
 ステレオタイプのキャラを活かそうと思ったら、そういうところまで思いを馳せなきゃいけないと思う。
 つまりは、結局ステレオタイプな人間など存在しない、という方向に持っていくしかないわけで、ま、一度くらいならミステリの「手」として使えるかもしれないけど、正直あんまりオススメはしたくないですなぁ。
 
 
 (初稿 2005年8月4日更新「ビバ!谷原章介」、2014年4月30日更新「記号的演技者の再評価を!」、2017年1月9日更新「ステレオタイプの活かし方」他・改稿 2019年5月13日)