笑いの世界 後編
 フリートークという芸がラジオから始まったというのは定説になっています。
 台本皆無で各々の考えであったり、ユーモラスな雑談をする、ということ自体は雑誌の鼎談なとでは相当早い時期から行われていましたが、放送はおそか舞台でさえあまりないものでした。

 かつて徳川夢声という人がいました。元は活弁士でしたが、その後無声映画衰退とともにコメディアンに転向、てな話はテーマと関係ないので割愛。
 テレビの黎明期に柳家金語楼とコンビを組んで「こんにゃく問答(こんにゃく談義)」という番組でフリートークを行なったとされていますが、どこまで台本が用意されていたのかはわかりません。ま、NHKの番組だからね。推して知るべし、というか。
 ただし徳川夢声は、戦前期からすでにフリートークを活字の形でやっており、数多い著作のうち大半は「雑談の活字化」と言えるものでした。もちろんゴーストライターなどはおらず、自身で文章化していたのですが、これがユーモラスで実に楽しい。まったく、本でありながら良く出来たフリートーク番組を見ている錯覚を覚えるほどです。

 フリートークの最大の長所は「何の準備もいらない」ことでしょう。
 もちろん喋る当人はネタを仕込み、また練り込まなければいけないんだけど、制作側は何も用意する必要がない。豪華なセットも音楽すら必要ない。マイクの前で喋るだけで成立してしまうのですから、事前準備もカネもかからない。
 だから予算をかけられないラジオでフリートークなる番組が始められた。それが1960年代後半になって花が開くのです。
 深夜番組という比較的規制のユルい時間帯で、DJと呼ばれる人たちがフリートークを繰り広げる。その新しさ、自由さに若者たちはたちまち虜になりました。
 ただしラジオのフリートークにはひとつだけ欠点があった。ラジオというものは生放送が基本なんです。生放送だから、どうしても過剰に放送禁止用語に気を配らなければならない。これでは完全に自由に喋れるというわけではない、というか。

 フリートークがテレビに流れてきたのは関西からでした。
 関西の、いわゆる準キー局は東京のキー局に比べると予算が少ない。「てなもんや三度笠」のような本格的バラエティ番組はカネも手間もかかるので、そう易々とは作れない。
 しかし芸人が育つ土壌が豊富な関西には、フリートークもこなせる人が溢れかえっている。ならば、何もラジオだけにフリートークをやらせておく手はない。テレビでもフリートークをやろう、となったのではないかと。まァ想像ですが。
 フリートークだけでも十分番組として成り立つ、どころか面白いものが作れる、ということが次第にわかってきた。当然そこには練達のフリートークの達人とも言える芸人がいたからなのですが、関西で名を上げた達人たちはフリートークを武器に東京へ殴り込みをかけたのです。
 そんな中でもっとも成功した例は明石家さんまと島田紳助でしょう。彼らは関西時代のやり方を一切崩さず、まったく同じ手法で東京で成功し、一躍トップ芸人になりおおせたのです。

 しかし、フリートークという枠の中で特別な存在といえば、アタシは笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎を挙げる。
 結果的には初めて本格的にコンビを組んだ「鶴瓶上岡パペポTV」で東京でも認められ、ともに大ブレイクしたのですが、これは必然だったと思う。
 元々「パペポ」は、どうしても東京進出が上手くいかない鶴瓶が「関西でも本当に面白い番組が出来る」ことを証明するために、同じくフリートークの達人だった上岡龍太郎とコンビを組ませて始まったものらしい。
 これが当たった。鶴瓶は上岡の、上岡は鶴瓶の良いところを徹底的に引き出したことで、その潜在能力が東京でも認められることになった。以降鶴瓶は現在まで、上岡龍太郎は引退した2000年まで、東京でもトップ芸人として活躍することが出来たのです。

 「鶴瓶上岡パペポTV」の成功はテレビに変革をもたらした。
 まず、フリートークはラジオよりもテレビの方が向いていると証明したことでしょう。
 先ほど書いたように、ラジオは生放送が基本なのでどうしても自主的な規制を敷いてしまう。ところがテレビは事前収録が基本なので、放送禁止用語など気にせず、また収録時間さえ気にせずに闊達に自由に喋ることが出来る。これは後でいくらでも編集が可能なテレビの特性を実に上手く活かしたといえます。
 もうひとつ、こちらはより重要なのですが、結局テレビというメディアにおいて、もっとも向いている芸はフリートーク芸である、ということを知らしめたことではないでしょうか。
 前回アタシは「コントからバラエティ番組に至るまで、約束事であったり予定調和はすべてビートたけしがぶっ壊した」と書きました。
 しかし、そもそもテレビは映画などとは本質的に違い、予定調和が嫌がられる可能性の強いメディアだったんだと思う。だから仮にビートたけしが壊してなくても、また別の「天才」と呼ばれる人がぶっ壊した可能性が高い。

 実はテレビは作り物が苦手なのです。
 これはテレビドラマにさえ当てはまることで、「お荷物小荷物」という「脱ドラマ」と呼ばれるドラマの脚本を書いた佐々木守が面白いことを言っています。
 テレビは時間ごとに区切られているだけで、バラエティであろうがニュースであろうがアニメであろうが、同じテレビ番組でしかない。
 ドラマだって同じで「古畑任三郎です」と言ったところで、みんな「古畑任三郎ではなく田村正和だ」ということを知ってる。だったら、ドラマだろうがなんだろうが、役者の本当の声を聞かせる方が良いではないか、そんな理論で「劇中に突然役者が<素>に戻って喋り出す」という「お荷物小荷物」を書いたと。
 これはテレビの本質を言い当てていると思う。テレビで一番求められているのは「役柄に扮して何かやる」ことではなく「可能な限り<素>をさらけ出して喋る」ことなんです。
 となると、テレビというメディアで笑いを提供しようとした場合、<作り物>であるコントよりも、出演者が<素>をさらけ出すフリートークの方が良い、という結論になるわけでね。

 フリートークこそテレビの本質、ということを考えれば、あれだけすべてを破壊していったビートたけしでさえ破壊出来ないのは当然で、それまで壊してしまうと自身の存在意義さえなくなってしまう。だから壊し屋のビートたけしでもフリートークという芸だけは破壊出来なかったのです。
 唯一フリートークの弱点はというと、継承が一切出来ないことでしょう。
 明石家さんまのトークネタを、仮に相当な練達の人がやっても、絶対に成立しない。フリートークのネタはあくまで一代限りのものでしかなく、しかもテレビ局側が用意した演出家の割り込む余地もないことから、番組の面白さはすべて話者に委ねられるわけです。
 制作者側からすれば、ラクはラクだけど、何もコントロールすることが出来ない。出来ることと言えば、キャスティングと如何に話者が喋りやすい環境を作ることくらいです。でもそれも、結局は通り一遍になる。

 そこで考え出されたのが「表面上はトーク番組というスタイルを取らない」方法です。
 島田紳助が好んだやり方で、一応はクイズ番組の皮を被っている。しかしクイズそのものはあくまで刺身のツマでしかなく、見せどころはあくまでトークである、というようなスタイルです。
 「ヘキサゴン」や「行列のできる法律相談所」が成功したからでしょうが、一時期、紳助が司会であろうがなかろうが「クイズ番組の皮を被ったトーク番組」だらけになった。あまりにも多く似た番組が作られたために、飽きられるを通り越してテレビ離れまで引き起こしてしまった、と言えると思うんです。

 そうなんです。フリートークをメインに扱う番組は極めてバリエーションが作りづらいのです。フリートークの達人は限られているから、どうしても同じ人ばかりキャスティングされるし、見せ方も「クイズ番組風」にするか、「さんま御殿」や「アメトーーク」のような集団トークにするか、それとも「徹子の部屋」のようなゲストを招いての一対一のトーク番組にするか、ほとんどこの3種類しかないんです。
 しかも先ほど書いた通り、継承出来ない一代限りのものなので古典、つまりサンプルにはならない。
 サンプルがあればこそ次世代のクオリティが上がるんです。でもそれが不可能なフリートーク番組では「どれだけ優秀なフリートークの人材が出てくるか」にすべてがかかっている。育成も出来なければサンプルがあるわけでもない。つまり奇跡を信じて天才の登場を待つしかなくなった、と。

 だんだん笑い論からテレビ論にズレていってるので軌道修正しますが、伊東四朗らがいう「笑いのホームグラウンドは舞台である」というのは、テレビというメディアはあまりにも向いてることが限られすぎているということだと思う。
 佐々木守の言う通り、テレビは所詮作り物を受け付けないメディアです。しかし舞台は違う。歌舞伎のような極めて様式美が強いものでも、何の問題もなく観客は受け止めるわけです。
 テレビと舞台の差なんて話になるとすぐに規制がどうちゃらみたいになるけど、そんなことは二次的なことであって、舞台なら虚構性が強いファンタジックなものでも、ミュージカルじみたものでも成立するのにテレビはそうじゃない。それが答えなんじゃないでしょうか。

 上岡龍太郎の言う通り、人々は少しテレビに期待しすぎたのかもしれない。そんなたいしたメディアじゃないのに、まるで魔法の箱のような扱いをされすぎた。
 テレビが本当に威力を発揮出来るのは、報道とスポーツ中継のみなんです。少なくとも笑いをやろうとすれば幅が狭すぎるものでしかない。
 テレビで笑いを発信する。これは実は意味のないことに近いような気がする。それでも、そんなことは百も承知で笑いを作り出そうとしていた武者がいた時代は別かもしれないけど、もうそんな人はいない。高齢で引退するか、絶望の挙句テレビの可能性を探るのを止めてしまった。
 こと笑いだけで言えば、もしかしたらテレビよりもインターネットの方がまだマシなのかもしれない。インターネットの方がすごいって話ではなくて、向き不向きの問題としてマシなんじゃないかと。

 もうそろそろ、テレビの限界みたいなのを製作者側が認めるべきだよなぁ。認めることによって、もしかしたら何か新しい扉が開くかもしれないしね。


 (初出 2007年6月30日〜7月11日更新「笑いの世界」、2017年7月11日更新「笑いのシンフォニー」他・改稿 2018年9月10日、11日)